つれづれ、散歩は歩いて美しく散る。
六年ぶりに老師に会うために某所に行く。駅前があまりに大都会(シティー化)していたので驚愕した。
寺に着くと先客がいたので二時間ほど歩行行を敢行。痛みに似た寒さも気づけば晴れてきて、気持ちだけは晴れやかになった。しかし私の足は少しばかり悲鳴をあげたが。
寺に再度訪問し先客もいなくなってたが、老師は戸の鍵を閉め。今日は終いだとさとり、私は持参した手土産を賽銭箱の横に置き静かにそこを後にした。
また、来週来ようと。
帰りの炙りチャーシューがうまかった。
明日がまた来る。
合掌。
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マイナスの絶対幸福。
— 都市 (@naakaa8) 2018年1月21日
許すという言葉じゃなく「正見道」正しく見て、あるがままを受け止める。許すという言葉は上から目線のような。許す時点で相手が悪者になる可能性がある。
— 都市 (@naakaa8) 2018年1月21日
言葉にして伝えれば、悲しくないけれども、言葉にしないで伝わることはある。裏腹のことを言うことも愛情である。
— 都市 (@naakaa8) 2018年1月21日
いまを受け入れることは「救われることで」そこからメインストリートに進みたい。メインラインは厳しい。ラインを外れた方が力が湧き出る。選択の道で。人によってメインとメイン外の苦行は違う。
— 都市 (@naakaa8) 2018年1月21日
苦行じゃないほうを選びたるが、人それぞれの苦行ラインがあって、すべてのラインは苦行ベースに考えないで、どの道がいいかなんじゃないか。大切な大事な方。
— 都市 (@naakaa8) 2018年1月21日
ありのままもいいけど、うつろう性質でありのままも信用できない。
— 都市 (@naakaa8) 2018年1月21日
取りつくった自分もありのままの自分じゃなかろうか。基本的にありのままじゃ日常生活波状するぞ。
社会人をしていると必ず時間ドロボーに出会うから得積みと思っている。
ブログもちょっと書く間が出来てしまいましたね。
私は、芸術的表現が好きなので、あっちいったり、こっちいったりして悶々とするのですがそれも楽しみつつ。
圧倒的に面白そうで継続出来そうな方を選びます。
私は、日本語の言葉の表現力が好きで、このフラストレーションを解消と感受の復興のために短歌を所望しているのですが、何せ継続できない。それほど、好きではないのかもしれないし、すてきな言葉の表現をして、その一文に賭けることが出来ないのだろう。
その他で、ブロガーの記事を読むのは好きで、自己啓発や言葉の表現も携えているから、一石二鳥です。
ここから、本題で、社会に出て仕事仲間ができ、「あふたーふぁいぶ」や休日を共にすること出来事に遭遇すると思いますが。
そんな時、うあ~~この「時間ドロボー」と叫びたくなる時が私は多々あります。別にヒッキーではないですが、大げさに言うと「己は汝の寿命のロウソクを使いおって」と悔恨したりw
そんな時に私は今世の得積み或いは来世、はたまた、末代の功徳を積んでいると考えています。
All about Lily Chou-Chou OST - Arabesque(アラベスク)
またあすが来る。
思考が現実にならないので流れに任せながら起動修正。ハードルを下げる訓練。
私は、占いは当てにいくタイプなので、思考の現実化も起動修正しながら行います。
ネガ思考で最悪の状態を意識してしまうタイプなんですが、以外にうまくいきます。
不幸語りはたしかに気持ちいいのかもしれないが、そもそも不幸を不幸と思わずに今の今まで特に自分の(はたからみると)壮絶な過去を忘れててもちろん他人に話したこともほとんどないようなタフすぎる人が近くにいるので、「この人は何のためにこの物語を語るのだろう」と考えてしまう。
— えふ太 (@fta7e) 2017年9月18日
不幸は蜜の味と言いますが、武勇伝として語り継がれたりします。
前に『そもそも人間に生きる意味などありません。生きる事自体が生きる意味なのです。』と言う禅問答のような記事を読んだ事がある。
— セラフィム(ちょっとだけ鬱かも…) (@izukoheyukunoka) 2017年9月17日
自分が鬱になった時も、その時(今)を生きる事自体が生きる意味だったのかなぁ…と思った。(禅問答か???)https://t.co/6AZeVp54I9
生きること自体が財産になりつつあります。
「サラリーマンはオワコン。フリーランスが最高」なんていうつもりはまったく無い。
— Ryohei@元銀行員ブロガー (@ryoheifree) 2017年9月14日
どんな働き方でも、人生を最高に楽しんでいる人が無敵だと思う。
どんな働きかたでもいいんです。ストレスフリーも辛いぞ。人生にスパイスを。
人は、人生は、いるだけで、「存在しているだけで意味がある」
「人生に生きる意味がないと言うなら、サムシングがないとゆうことだよ」
人生に生きる意味なんてない。ただ、存在しているだけ。それは、単細胞生物だよ。
人生の問いを無視して、ただ、流れていくものと捉えて、意味がないなんて、よく矛盾したことが言えたもんだ。
あなたが、行動して、生活していることに、もう、意味があって。
意味があることをそんな大げさに捉えなくてもいい。
明日がまた来る。
もう、自由を求めるのはやめよう。
自由を自認している人は集合意識に操られているという言葉には合点がいく。自由を求めると苦しくなる。
— 中ノ川@フリー作家。 (@naakaa8) 2017年9月16日
自由と叫んでも、なんかしらのリスクがある。人としてや経済的価値観を捨てることに躊躇なければ良いし、ミニマリストのように断捨離して禅僧生活も小気味よいですから。
ただ、自由と言いながら、何かに操られているのではないかと勘ぐる訳で、読者の期待に応えるべく、「死ににいくスタイル」を自らに課す。
感受性を失うかわりに、大人の階段を登る。大人の正論とは、アジャジャしたー。
— 中ノ川@フリー作家。 (@naakaa8) 2017年9月12日
私は、大人になるにつれて感受性が失われていく恐怖に駆られていた。段々、感性が凝り固まっていき、何も感じない生物になる恐怖に。
それは、とてつもなく恐いことで人としてオワコンなのではないか。
明日がまた来る。